印刷物の行く末

ペーパーレスを推奨する傍ら、


印刷物の需要って、そうそう減っている訳ではないのです。


ただ、所有から共有に変化しているのかな・・・なんて、


個人的には思ってみたりするのです。


漫画喫茶とか、古本屋さんとか、多岐多様になってきているじゃない?


 


それから日本だけでも、たくさんあふれるフリーマガジン。


ちょっと前に、韓国でもフリーマガジンの需要について、


ニュースで特集まで行かなくても取り上げられていました。


お気軽、お手軽、手に取れるってのが良いのかなぁ?


クーポンついてるしね


 


とはいえ、携帯1人1台時代


携帯小説やらブログやら、携帯が文庫本代わりになったりして、


携帯で小説を読んだり、新聞読んだり、雑誌読んだり。


携帯ゲーム・・・なんてのもありますけど


 


都心部は、電車に揺られる時間がとても長いので、


その時間をうまく活用して、退屈しない工夫が、


ひとつの文化みたいに根付いているのかな?なんて。


 


そんな感じで、たとえ携帯なりゲーム機なりの、


電子機器類が発達しようとも、書籍の需要は決してなくならないでしょう?


電車に乗って見廻すと、本を持っている人って結構居ますよね


 


数百年後、数千年後、データは失われても、


紙に印刷したもの(特に白黒のシンプルなもの)は決して失われないのです。


 


 


さて、数千年後の歴史家たちが、


今の我々の時代を研究しようとした時、いったい何で時代を探るのでしょうか?


総てコンピューターの中に、データとして残っているのでしょうかね?


それとも、メモリーとして小さなキーホルダーみたいなのに詰まっているのかな?


 


なんて考えると、既に数千年の歴史を経ている紙ってすごいなと思うのです。


その、“紙”に残すものを考えたり、作っていくのが、


マスコミ制作学科なのかな・・・って(フリが長いって


 


放送映像学科は、“今”をリアルタイムに伝える人を育成する学科です。


マスコミ制作学科は、“今”をカタチにして残す人を育成する学科です。


その“カタチ”は、書籍かもしれないし、Webかもしれないし、


はたまたたった1枚の紙っ切れかもしれません。


けど、それが残って歴史を経て、


自分の居た形跡なんてかけらも無い時代の人の目に触れたら、


なんだかちょっとかっこいいかな・・・なんて考えてみました。


あ、けどインクによっては水に溶けるし、火には燃えちゃうし・・・。


結構、きれいに残っていくのってサバイバルかもしれない


妄想するのは自由ってことで


 


ねぇねぇ、印刷物を見る目がちょっと変わるでしょ?